2012/10/17

マ・プレム・マンガラのためのある物語(前半)

マンガラの写真

皆さん、こんにちは。

この「ちょっと長めの物語」は、昨日(10月9日)「最後の息をひきとった」古い親友のために、キャンドルを灯しながら書いたものです。

もとは「Loving Memory of the Poonaides」というグループと、インドにいた頃にアヌブッダとアナーシャと過ごした人たちにむけて投稿したものですが、もしかしたらあなたの内側にある、なにかとても大切なものに触れるかもしれません。

smile + love.


愛されしマンガラとその友人たちへ、

この物語と思索は、素敵で神秘的なマ・プレム・マンガラのためのものです。

僕は、君が物語を愛していたことを知っているし、1978年にアシュラムのプレス・オフィスで初めて出会ってから、君の物語を聞いたり、僕の物語を君とシェアすることは僕にとってすごく楽しいことだった。

カナダ人のクリシュナ・プレムは当時、僕たちにとって「恐れを知らないリーダー」で、僕たちは皆、インド人やさまざまな国からの報道陣に向こう見ずなことやりまくって、それを楽しんでいた。

クリシュナ・プレムの写真

控えめに言っても大胆だったと思う。クリシュナ・プレムは、僕たちにとってとても大切な魂の友人だった。だから彼が肝臓癌で亡くなったことは、僕には大きな目覚まし時計がなったようなものだったし、彼が神秘のなかへと旅だっていったことで大きな感銘をうけた。

あらゆる国際的な雑誌やインドの雑誌が、アシュラムについてセンセーショナルに書き立てているのを読むのは、なかなか乙なものだったよね? だって、そこに書かれているのが、自分たちの住んでいるのと同じ場所のことだなんて到底信じられないようなものだったもの! 僕たちは以来、メディアをぜったいに信じないと笑っていたものだ。プロパガンダによる教育って大したもんだ、ってね! 

僕にとって、皆で分かち合った時間はすべて大切な宝物になっている。プーナ1のプレス・オフィス、和尚ミステリー・スクールが羽ばたいたプーナ2、 和尚がボディを離れたプーナ3、日本、ゴアでの時間、さらには最後の二年間にわたって君とアナーシャと僕がケルンで分かち合った素晴らしい時間。

愛のこもった「アップデート」をしてくれたサヴィータ、共通の友人であり通訳である日本人のラサタのお陰で、アナーシャとアヌブッダは、癌であるこ とを知ってからの君の「ヒーリング・ジャーニー」にとっても深くかかわることができた。ケルンでの素晴らしい時間については、また後で書こうと思う。

セニョール死神との邂逅


「セニョール死神」ってすごい現象だよね?!? それは僕の深い部分に触れた、と告白しなければならない。死によって僕たちは皆、平等になる。和尚やブッダには、死は生の一部だ。けれど「目覚めていない目」には、死は生とは真逆にみえる。

1960年代の初頭にSt Rose of Lima Catholic Churchに通っていたときのことを、僕は今でも覚えている。僕は「祭壇奉仕者」で、司祭の怪しげなまじないの手伝いをしていた。その教区で誰かが亡くなると、当然、葬儀があり、司祭(あるいは父親的存在)とその少 年たちの出番となる(ところで。なんて皮肉だろうね??? 当時は噂でしかなかったけれど、ちょうど僕のような何千という少年たちが、聖なる司祭たちに文 字通り締め上げられ穴をあけられてたんだ。だけど、これはまた別の話。そうだよねマンガラ?!?)。司祭の手伝いをすることで、僕たちは3〜10ドルほどをもらっていた。それは家族によってまちまちだった。そんなわけで、毎回手伝えるチャンスがあれば、必ずそれに飛びついていた。

今でもはっきり思い出せるけれど、その教会全体の雰囲気といったら。「悲しげで陰気で恐ろしげで」… けれど、お香は良い匂いだったな。棺がやってきて、陰鬱な音楽が奏でられ、二、三のお祈りと涙、警句。すべてが同じこと の繰り返し。誰も死ぬということをオープンに、あるいは成熟したマインドで語ることなく、躾や神の恐ろしさを植え付けるために、その悲しい状況を利用して いた(ただ、こうした葬儀に参加することで、いくらかのお金を受け取って、ビートルズやローリングストーンズの最新アルバムを買えたわけだけれどね!)。


プーナのシュリ・ラジニーシ・アシュラムへと物語を一気に進めよう(マンガラには今年はじめ、この物語の「ロング・バージョン」を話したので、今回は「ショート・バージョン」を話すことにする)。

1976年の9月初め、僕は「ラジニーシ・ネオ・ヨガ」のクラスをクリシュナ・ハウスの屋上でリードすることになっていた。すると、マ・ヨガ・ラクシミのヘルパーの一人が僕に、オフィスに電報が届いていると知らせにきた。どういうこと?!? 僕はそれまでの人生で(それ以降も)一度たりとも電報を受け取ったことがなかった。階段に腰掛けて(君はなんどこの大理石の階段に腰掛けた?!!?)、その電報に目を通した。

それはサンディエゴにいる僕の父からで、母が心臓の動脈に問題が生じて亡くなった、というものだった。まったく予測していなかったことだった(アヌブッダはその瞬間ノー・マインドになっていた)。僕は座ったまま泣いて、どうしたらいいのかを考えようとしていた。僕はこの知らせを何人かの友人に話し、母と自分との深いハートのつながりへと開いていった。それは感情と思考のつづれ織りだった。

けれど、そのすべての内側と周囲には和尚がいた。そして「セニョール死神」への新しい視点と理解をもつように促してくれた。少しして、僕はラクシミに話をしに行った。僕がとても深いレベルで愛し、信頼していた人だ。彼女はすごくて、すぐにその晩の和尚とのダルシャンを手配してくれた。僕は、当時住んでいた「マ・シュラッダ」へと帰り、和尚との面会のために、これまでにないくらい入念にシャワーを浴びた。

「おかしい」のは、僕の前のダルシャンでゴパルとビヌーが母の死について語り、家族とすごすためにカナダに帰り、またこちらに戻ってくるためにどうしたらいいのかを和尚と話していたことだ。

和尚は素晴らしかった。僕が覚えているのは、死がいかに大切なものかということ、 近しい誰かが死ぬとき、あなたの意識の窓が大きく開かれ、瞑想の種が成長し花開くということ、私たちの人生において何がほんとうにかけがえのないものなの かを、いかにして死が皆に思い出させてくれるのかということ、そして家族や友人たちがより深いレベルで瞑想と愛に開いていくにあたって、どう助けとなれる かということについて和尚が語っていたことだった。

ダルシャンを終える頃、僕は和尚に母のこと、そしてサンディエゴに戻ったら過去のパターンに戻ってしまうのではないかという僕の恐れについて話した。彼は微笑んで言った。「心配しなくてよろしい。私が君に取り憑いてあげよう!」僕は思わず涙とともに噴き出した。すると彼はふたたび、瞑想への扉としての死について語ってくれた。和尚は、カリフォルニアでは家族との時間を取るようにとか、家族を瞑想へといざない、和尚のもとで体験したことをシェアしなさいとか、さらには 「help my People there(そこにいる私の人々を助けなさい)」という和尚の典型的な公案を僕に授けてもくれた。

ということで僕は、ひじょうに本質的な意味で、新しい人として家に帰る準備にあたった。本当のことを言うと、その場を離れたくなかった。というのも、僕は和尚とコミューンとともに「永遠に一緒」でいたいと、はっきり心の中で決めていたからだ。僕は両親に、どれほどアシュラムと和尚を愛しているか、自分の名前をアヌブッダへと変えたこと、そしてインドに「永遠に」住めるよう、イランに英語を教えに行く計画をたてているとさえ書き送っていたのだ(当時僕は24歳という若さだった)。アシュラムは僕の人生であり、我が家だった。(ハハー! 僕はよく思うんだ。この手紙が敬虔なカソリック教徒だった母の動脈破裂を引き起こしたのかもしれない、ってね!)

僕は、14日間にわたって和尚の住居の隣でおこなわれた、ディヴィヤの「Soma」という神秘的なグループを終えたばかりだった。そのグループでは、数多くのとんでもなくエゾテリックなことが実践され、そのなかには、自分のボディから離れてアストラル・トラベルをするやり方を学ぶとか、チベットの死者の書にある、中陰に入って瞑想するというものもあった。僕の母がボディを離れたのは、まさにその「Soma」グループの終盤のことだった。ディヴィヤは僕に、僕が自分のボディから離れているときに、母が僕のもとを訪れつながったのは「間違いない」と話してくれた。そして彼女は、僕がそういう体験をしたことや、僕のスピリチュアルな取り組みをとても嬉しく思うとも話してくれた。和尚とともにいると、セニョール死神は神秘的だけれど、観照していて興味深いものでもある。

ヴィパサナ、キンマヨ、ヴィマルキルティ、ダダジ


それから程なくして、もうひとつ美しい「死のセレブレーション」が僕たちサニヤシンのために執り行われた。アシュラムという家族の一員だったヴィパサナ(僕たちのよき友人であり、オランダ人のヴィヨギの姉妹)が76か77歳で予期せず亡くなったのだ。

和尚は、その瞬間を創造的に利用した。僕たちは歌い、踊り、彼女のボディを火葬場へと運んだ。そして炎の周りで踊り、セニョール死神とともに瞑想し た。「Walk into the Holy Fire, step into the Holy Flames… oh oh oh oh Halelujah!」それは僕たち皆の内的成長にとって大きな体験だった。

ヴィパサナのために恍惚となって歌い、セニョール死神をものともしなかった。そしてそれは、和尚のまわりで、和尚とともに、さらには和尚のための数えきれないほどの「聖なる炎」の最初でもあった。そしてその後、シーラのボーイフレンドだったキンマヨが亡くなった。そのときもまた、和尚がどう「セニョール死神」とともにいるのかを見せてくれた。

1978年、ある美しい女性がラクシミ・ヴィラで亡くなった。そこは僕が当時住んでいたところだった。愛する友人であるディペッシュとともに、僕は彼女のボディを聖なる炎に付すための準備をした。それは僕にとって、リラックスした手で亡骸に触れる初めての機会だった。そして僕たちは彼女のボディを焼き場へと運んだ。

歌い踊りながら彼女のボディとともにプーナの街を練り歩いている最中に、ルペッシュがドラムを叩いていたのが今でも目に浮かぶ。僕たちのサンガのメンバーとともにおこなった一回一回の「死のセレブレーション」が、死に向けての新しい気づきと内なるくつろぎをもたらしてくれた。

君や僕、愛する友人の番もいつかやって来ることになる。けれど今は、「プリンス」ヴィマルキルティの突然の死を思い出している。和尚が彼について語ったこと、死ぬことは生の一部であること、その瞬間にむけて愛と喜びをそそぐ何千ものサニアシンとともに僕たちがおこなった素晴らしいセレブレーションのこと。

ヴィマルキルティの写真


さらなる精妙な変容。そして一回一回の死とともに、新しい生が体験される。そして和尚が、死は偉大な働きをもっていると語る。これらすべてを、僕たちはケルンにいたマンガラと語り合ったものだ。

そして......(後半に続く


翻訳元:Señor Death by Anubuddha
(翻訳:サハジョ)