2012/06/06

瞑想としてアルーンコンシャスタッチを体験する Part1

アヌブッダとアナーシャの写真by Anubuddha & Anasha

コンシャスタッチを受けるアート


まず、セッションテーブルに横になっているとき、ギバーに対してどんなフィードバックも(聞かれない限り)与えようとしないこと。もっと違うようにタッチしてほしいと、考えることすらしない。
今受けているこのタッチと、これまで受けたことのあるタッチを比較しない、判断しない、そして起こっていること以外のものを欲しない。難しいですか? けれど不可能なことではありません。

期待、欲望、幻想、そして恐れを手放して、この瞬間に興味を持つこと。
あなたの人生のまさにこの瞬間、ボディマインドの内側で、シンプルにタッチを使って、今、この現在にいることができます。

タッチを通して起こるあらゆる感覚、思考、肉体の構造に気づき、何かを変えようとせず、あなた自身とともにいる。
瞑想として、内側を見ることの本来の可能性と美しさを味わうことができます。
もし、どこかにある緊張に気づくことになれば、それは素晴らしい。

判断せず、分析せず、それから逃げないように。あなたの身体について後ろめたさを感じたり、自意識を持ちすぎることで、時間を無駄にしないように。
もし、気持ちよいなら、それも素晴らしい。起こるにまかせて。
すべての感覚や思考(良い、悪い、退屈、そしてその中間のすべて)は、かなり、一時的なもので、自然に、次の感覚、次の思考へと移り変わり、流れていくものです。

見続け、呼吸し、油断なく、あなた自身、あなたの身体に関して新しい洞察を発見し、内側に息づく生命に近づくために、タッチを使う。
この瞬間にとどまることができるとき、多くのポジティブな洞察とヒーリングの恩恵がもたらされます。

与える人を、あるいは、受けている人を、判断したり、批評しないことを学ぶ必要性を主張するには、多くの理由があります。あらゆるブッダたち、光明を得た人々は、「あるがままを全面的に受け容れること」、仏陀の言葉でいえば、「タタータ」のエネルギーのもつ効力を強調します。それは単に非物質的なエネルギーとしての概念や、教えとしてだけではなく、現実として、明らかに影響力があります。

この気づきにいかにアクセスして、活用するかを学ぶのは、私たち次第です。
もし、タッチを与えている人が、あなたから、ジャッジされているのを感じると、あるいは、微妙にでも、相手がしていることにオープンでいないでいると、相手のタッチの能力は著しく影響されます。相手は、どう思われているかをもっと気にし、流れを失い、クリエイティビティが抑えられ、マインドから動くようになります。
セッションは、より機械的になり, 時には、無意識に怒り、消耗し、インスピレーションに欠けることが起こりえます。

一方、信頼されている、受け容れられている、感謝されている、クリエイティブでいることを励まされていると感じると、直感的なエネルギーが流れて、あなたの手は、適切に、予測なしに自発的に身体に応答して動いていきます。 相手が、あなたのタッチにオープンで、受容的でいる時、与えることで、エネルギーを受け取ります。

私は、1988年 プーナで、初めて和尚にセッションをした時のことを思い出します。 
私が呼ばれたのは、和尚の足がとても不安定で、腰椎のあたりに痛みを感じるということででした。彼は肉体全体がローエネルギーで、疲れていて、少しつながっていないと感じていました。背骨から、両足への流れを助けるいくつかのいいアイディアがありましたが、彼の身体が私のタッチにどのように、反応するかは、定かでありませんでした。

タッチを始めるときに、和尚の主治医とケアテイカーの両方から、彼の身体がいかに繊細であるか、気づきをもって行うように、注意を促されました。
私は当時すでに12年間途切れることなく和尚とともに生活していたので、そのことは、充分わかっていましたが、それでも念を押して言われる必要があるほどでした。

彼に触れる前に、すでに、彼の身体の波動が、いかにユニークで繊細かは、とても明らかでした。それなので、ゆっくりと腰から骨盤のあたりを、とても繊細に揺らし、まわるく回転するように動かし始めました。彼のボディはレットゴーされ、動くにまかせていました。私はタッチをするとき、目を閉じることが多いのですが、そのときも閉じていた目をふと開けると、和尚のケアティカーの一人が、非常に懸念そうな顔で伺っているのに気づきました。おそらく、外から見ると、和尚の腰の筋肉が押さえられた状態で、彼の繊細な体が、揺らされるのは、奇妙であったかもしれません。

ある種の目つきが、エネルギーの流れを止めてしまうことがあるのを、誰でも知っていると思いますが、私も、もちろん、注意は、主に和尚に向けられてはいましたが、少し気がそらされました。その時点までセッションの間中(実際5分ほどでしたが)和尚の目は閉じて、身体は、リラックスし、呼吸はとてもオープンで穏やかでした。まさにその瞬間、和尚は、静かに目を開け、彼のケアティカーの方を見て、とても優しく、はっきりと、言いました。

「アヌブッダに、彼の仕事をさせてあげなさい。」そして、愛に満ちて微笑み、再び目を閉じました。このことが、私に与えた影響を、決して忘れることはないでしょう。

私は、彼の信頼、オープンさ、タッチとともに探ろうとする意欲を感じました。
私は、和尚にタッチし、話をし、耳を傾け、彼を見るときに、比較も期待もなく、決して、プレッシャーを感じたことがありません。それは、とてもリラックスしていて、インスピレーションに溢れ、自然なことでした。私は、受け容れること、わからないままでいることの、隠された変容の力を感じました。

この受け容れること、判断しない、比較しない、期待しない、プレッシャーを自分にかけないという原理は、セッションギバーにもあてはまります。自分でそれを経験したことのない人に証明するのは、難しいですが、指の下に触れているものを判断したり、批判している時、タッチの質と触れているものへのタッチの浸透性は、変わります。期待と欲もまた、タッチの可能性を妨げます。判断することが、決して助けにならないとは言いません。 あらゆる診断や分析が必ずしも瞑想のスピリットに反するものだとは言いません。ここで私が表現しようとしているのは、そこに、非常に微妙で繊細な違いがあるということです。

テーブルに横になっている人が、あなたの愛を感じるとき、あなたが、あるがままのその人に価値を感じているとき、内側を観るのを助けるために、タッチを「光」として、「鏡」として用いているとき、そして、相手を変えようとすることなく、どんなふうにも、操ろうとしていないとき、相手のエネルギーフィールドは、本質的な深いレベルで、シンプルにオープンになります。 

私は、非常に技術のある人々からセッションを受けたことがありますが、私の身体に問題があり、滞っている、閉じている、これではだめだ、OKでないと、何らかの判断の思考を感じざるえなかった時には、彼らは素晴らしい経験と理論を持っていながら、その効果は、あまり私に届くものではありませんでした。

反対に、受け容れられ、どんなふうにも、自分の身体をとがめないよう、恥じることのないよう、迎えられて触れられたセッションは、いつも思い出す大切な贈り物であり、癒しに満たされた結果がともないます。

愛に満ち、技術に優れて、瞑想的に触れられるというのは、とほうもなく、美しいものです。

Part 2に続きます......