「愛」という言葉は、
いろんな意味で使われるし、
たくさんのレイヤーがあり、
日本では(私が?)気恥ずかしい感じもしたり、
できれば使わないで話をしたい、という気持ちもあったりするのですが、
やはり「愛」としか言いようのないものに、ARUNでは、瞑想では、出会いますね。
ARUNは、愛と意識で触れていく、タッチの瞑想。
タッチは「忘れられた愛の言葉」とOshoは語ります。
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コンシャスタッチはこの世に必要だ。なぜなら「愛」が消えてしまったからだ。かつては、愛する人のタッチさえあれば充分だった。母が子に触れ、その体とともに戯れれば、それがマッサージだった。夫が妻の体と戯れれば、それがマッサージだった。それで充分。充分以上だった。それは深いリラクゼーションであり、愛の一部だった。
しかし、それがこの世から消えてしまった。次第に私たちはどこに触れたら良いのか、どう触れたら良いのか、どのくらい深く触れたら良いのかを忘れてしまった。事実「タッチ」はもっとも忘れられてしまった言語のひとつだ。私たちは、触れることにほとんど怖じ気づいてしまっている。というのも、その言葉そのものが、いわゆる宗教的な人々によって穢されてしまったからだ。彼らはそれに性的な色合いを与えた。その言葉は性的なものとなり、人々は恐れるようになった。誰もが、許されない限り、触れられないよう警戒心を抱くようになってしまった。
出典:OSHO - "Hammer on the Rock" Chapter 18
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ARUNに出会うとき、
触れることへの恐れに出会うひとはたくさんいます。それを意識して、そこから自由になりたい気持ちでこられることもあるし、触れはじめてから、自分の内側のこうした恐れに気づき、おどろき、そしてそれとともに歩きはじめるひとも。
ARUNはこうしたチャレンジに安全に安心して向き合っていける場。それはそのまま、自分との、まわりとの愛に繋がりなおすこと。そこから、たくさんの変容が起こっていくのをみせてもらっているなあと思います。
リトリートに参加された人が、
ずっと、人間じゃなくて、草とか木だったらよかったなあと思ってた。はじめて、人間に生まれてよかったなと思いました。と語ってくれたことがあって、今でも思い出すと涙がふくらむのですが、これはひょっとしたら私自身の内側の声なのかもしれません。
さいごに、Anubuddhaが大切にしている「坐禅和讃」から、
Oshoの言葉を贈ります。
衆生本来仏なり
水と氷のごとくにて
水をはなれて氷なく
衆生の他に仏なし
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あなたは氷のようであり、仏は水のようだ
あなたは凍りついているが、仏は融けている
繰り返して言おう
あなたが融けるのを助けてくれる秘術は、愛以外にはない
愛が融かす
なぜなら、愛はあたたかみだからだ
人々は愛のなかではじめて融ける
愛のなかにいなければ、その冷たさゆえに人々は凍りつく
あなたなりにそれを見守ったことがあるはずだ
愛しているとき、あなたは流れている
流れているとき、あなたは成長している
愛しているとき、あなたは拡がる
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この春、ARUNの愛のなか、
一緒に融けていきましょう~。
With Love
アディプリヤ