2019/03/24

Osho、光明を得てくれて、ほんとうにありがとう!

愛されし皆さん、こんにちは。

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ルンギを着て寛ぐOSHO

31年前の今日—1988年 3月 21日— わたしはOshoのバルコニーにいました。彼が朝の「タッチの瞑想」のためにやってくるのを待ちながら。彼は入ってくると、わたしにナマステをしました。内側深くから輝くように、にっこりと微笑みながら。わたしは自分の内奥にまで触れられるのを感じました。そして彼はルンギを脱ぎました(彼はいつも上半身裸のままでやってきました)。

それまでの7週間にわたって、わたしたちは毎日セッションをしてきて、その旅路のなかで本当のつながりがお互いの間に生まれていました。3年前にアメリカで拘束されて以来ずっと、彼の肉体はいたるところに奇妙な痛みを抱えていて、セッションでも常に反応していました。そうした痛みやおかしな感覚は彼のエネルギーフィールド全体に散らばっていたのですが、彼が「苦しんでいる」という感覚は一度たりとも感じられませんでした。自分の肉体と同一化せず、同時に完全にここにいて鋭敏でいる彼の様子は驚くべきものでした。

それはともかく、その日の状態を確認したのちに、わたしは彼に仰向けに寝るようにお願いしました。彼の長い髭や髪を引っ張らないように気をつけながら、わたしは彼の首の下に手を置きました。タッチを初めて数分したところで、わたしはいったん手を止めて、目に浮かぶ涙とともにこう言いました「Osho、光明を得てくださってありがとうございます。あなたは私たちにあまりに多くのものを与えてくださっています。わたしには言葉にできないほどです。」

美しい春分の日を迎えて、「わたしたちの覚醒の日」を楽しみましょう。

今年は、この現代の禅マスターが光明を得てから66周年になります。人類の潜在能力、心理、瞑想、ヒーリング、アート、音楽、意識的なセックス、そして創造性という領域において、Oshoは前世紀のもっとも深遠で光に満ちた存在です。Oshoのこの時代への影響と貢献は、あらゆる場所に浸透しています。

都市の大小にかかわらず世界中でたくさんの人が、Oshoの手法、アクティブ瞑想、そして自然な生き方への洞察をもって人々とワークしています。他にもOshoのサニヤシン(弟子たち)が世界中で「ニューエイジ」音楽の流れに深くかかわっています。事実、最高のミュージシャンのなかにはOshoの手法もちいて、瞑想し意識を高めている人もいます。

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インド、ラジャスタンで瞑想キャンプをおこなうOSHO(1960年代)

Oshoは、光明を得た後の1960年代と70年代初頭、 インド全土で何千人もの人たちを対象に「ダイナミック瞑想キャンプ」をおこなっていました。彼の教えは、「内側」への「扉として」自分の肉体をどう利用するのか、自分の内なる平和と静寂に再び繋がるにはどうしたら良いのかを学ぶことでした。それは今でもそうです。 この「内側へ入る」ことが、心配や必要のない緊張を抱えることなく、自分の生を最大限に生きられるようになるのです。

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瞑想キャンプ中のOSHO(1960年代後半)

Oshoのメッセージの基本は「愛」です。身体への愛、自分自身への愛、他の人、動物たち、自然への愛。存在が私たちに示しているすべてへの愛と敬意。Oshoは、ゴータマ・ブッダの理解を改めて強調しながら、私たちに体験するようにと教えています。

まさにこの身体こそが仏陀...... まさにこの場こそが蓮の花咲く楽園だ。

当然これほどまでの愛と気づきとともに生きるには「まったく新しい種類の教育」が必要です! 

1970年に行われたインド、マウント・アブでの瞑想キャンプでOshoは、より「意識的に生きること」への鍵をシェアしました。彼は、自らに本来備わっている英知、すなわち「知」から生きることと頭から生きることとの違いについて説明しています。彼が話していることを感じて理解しようとしてください。それがあなたの人生の異なる領域にどう応用できるのかを感じてみるのです。(それが自分の人生を変容させたことを、わたしは知っています!)

『知る』とはつねに自発的だ。いっぽう、信じることはすべて過去の知識、記憶によっている。あなたが自分の記憶から借りてくるとき、あなたは知るという瞬間にいない。人は誰からも借りることがあってはならない。自分自身の過去からでさえも。人は瞬間瞬間を生きなければならないし、あなたにやってくるすべてがあなたの知ることの一部になるように生きなければならない。

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川のほとりに佇むOSHO

わたしがあなたを見るとき、間にわたしの記憶がはさまっていない場合にのみ、見ることが知ることになり得る。もしわたしが、過去に二人が出会ったときの記憶を通してあなたを見ているとしたら、わたしはほんとうにはあなたを見ていない。しかし、もしわたしが過去の束縛なくあなたを見ることができれば、その見ることは瞑想的になる。もしわたしが自分の手が過去に知ったいかなる体験にも縛られずにあなたにタッチできたたら、そのタッチは瞑想的になる。

なにごとも、無垢で自発的であれば、瞑想的になる。

わたしが強調したい三つ目のポイントは、瞑想的なマインドは『瞬間瞬間』に生きるということだ。それは蓄積することなく、つねに今にあり、やってくる一つ一つの瞬間に受容的だ。

— Osho


私たちが自然に備える可能性を理解するための、このアプローチは、言うまでもないことですが、私たちの子どもたちが教育システムで教えられていることではありません。むしろ、その逆です! 

私たちの教育は、不幸なことに、基本的に「いかに緊張するか」を学ぶことからなっています。私たちは競い合うことを通して教育されています—どう批判するか、どう分析するか、無駄な情報をいかに収集するか、自分自身を他者とをどう比較するか、つまり、恐怖と不安のなかでいかに生きていくか。

あらかじめ予測した結論をもつことなく自らの身体・マインド・意識へと入っていく人は誰でも、たくさんの驚きに遭遇します。中立的な観照者として「内側を観照する」ことによって、私たちが「生きる」と呼んでいる体験全体が変容するのです。

「中立的に内側を観照する」ために必要な条件は、言うほど簡単ではありません。あなた自身が受けてきた教育では、瞬間瞬間の行いを「リラックスして批判なく見る」というトレーニングをしてくれていないからです。


アルーン「生きた脳」エクササイズ:瞑想的に見る


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つねに瞑想的なOSHOの目

肉体的にも比喩的にも私たちの視覚・ビジョンは、自らの過去や偏見によって曇っています。私たちは、Oshoが示しているようには「見て」いません。さらに私たちの目は、自らのマインドによって直接的にフィルタリングされています。そこには、自分の目にまつわるたくさんの緊張、心配、不信があります。しかし自分の目により意識的になり、瞑想的に「見る」ことを学ぶことができます。

10〜20分ほど一人になる時間ができたら、ただ目を閉じて、海の近くでするように呼吸します。シンプルに、自分の呼吸システムをリラックスさせます。肺に一回ゆっくりと、たっぷりした呼吸を許します。それから、ハートのセンターへ一回。それから、肚(またはお腹)のセンターへ一回。毎回、息を意識的に吐き出し、筋肉の力を抜いて柔らかくなるようにします。自分の観照が内側に向けて、注意深くいましょう。仙骨から背骨の真ん中を通って、首、頭へと気づきをもたらします。そして、吸う息とともに背筋が「ほんの少し」伸びるのを許します。

こんどは内側で、気づきが頭と脳の「後ろの部分」へと移るのを許します。そこには「リラクゼーション・センター」があります。時間をかけて、脳の後ろがあなたの関心の「中心点」となるのを許します。そこに呼びかけ、そこを感じ、そしてそのエネルギー、サイズ、そしてあなたの健やかさを常に支えてくれていることに受容的になります。Good… 

準備ができたら、気づきを目に移します。安らぎ内側に寛ぐ目を感じます。内から目を感じます。それぞれの目の上に優しく手のひらを置き、タッチをとおして目にチューニングします。そして、自分の目に語りかけます。より深く目と繋がりたいのだと語りかけるのです。目を囲む小さな筋肉を説得します:「リラックスしてごらん...... 今は何も恐れることはないから...... わたしがケアするから...... 寛いでいいんだよ。」 

すると、あなたは驚くことでしょう! あなたが愛情を持って近づくだけで、自分の身体のどの部分でもあなたに耳を傾けます。あなたに従います。あなたの身体なのです! 

この内なる対話を三回許したら、少なくとも二分間にわたって目を「パーミング(手のひらで軽く目を覆うこと)」して、目が広がり緊張を手放すよう誘います。そうしたら、手を離して、数分間その影響をただ感じます...... 

こんどはエネルギーの流れで遊んでみましょう:光が左目の中心から自由に流れ出します。右目の中心へ、そして前頭部へと。(ポイントからポイントへと渦まくエネルギーでつくられる直立した「三角形」を想像します)目は、私たちのエネルギーフィールドのなかでも、もっとも深刻で恐怖に満ちた部分のひとつですが、これは深刻なエクササイズではありません! 

このエクササイズを、それぞれの方向に12回ほど繰り返します。そして、焦点をあわせないまま気づきを保って休み、目が寛いで活き活きと、ただ「そこにある」のを感じます。一分ほど待って、こんどは別の「内なる解剖学の三角形」(人間のエネルギーフィールドにはたくさんあります)を形づくりましょう。

こんどは両目と脳の後ろをつなげます。あなたの意識を左目から右目、脳の後ろ、左目など、というように移動します。12回、その「三角形」を描きます。少し休み、こんどは逆方向に12回おこないます。

そしてリラックスしてお腹へと息を入れます。そして準備ができたら、ゆっくりと両目を開けて、フレッシュな視界を楽しみます。Oshoは言います。

もしわたしが過去の束縛なくあなたを見ることができれば、その見ることが瞑想的になる

ゆっくりと、コツをつかんでいきます。すると、たくさんの広がりや解放が起こることでしょう。


「ダンスする手」の瞑想


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優雅にダンスするOSHOの手

これは、あなたの手とタッチがより意識的になる助けとなる、もっとも美しく直接的な方法のひとつです。ときどき、目を閉じて座るか立つかして、手が「ほんとうにダンスする」ようにします!  自発的で創造的なあらゆる動きをしてみましょう。

あらゆる動きの可能性と、手をとおしたエネルギーの流れとともに遊びます...... 新しい液体のような...... ゆっくりと、あるいは速く。他のことはすべて忘れて、あなたの手が自由自在に動いているあいだ、その両手を愛と気づきで満たしましょう。

「正しく」できているかを心配しないで。あなたの手がダンスしているのです! 流れるままでいて...... それぞれの手が好きなように動くようにします。意識的でいて、楽しみます。しばらく(10〜15分がベストです)したら、動きを止め、少なくとも五分間、動かないで、どこにも焦点をあてることなく内側を見ます。

このシンプルな瞑想が日々の活動すべてにもたらす、良い影響に驚くことでしょう! 

あなたは、より繊細に、より存在感をもってタッチすることになるでしょう。手と脳の大脳半球との間には「交叉点」があるため、マインドが「過負荷」になっていたり、緊張したり、不安になっているとき、あるいは夜に眠れないときに、時にとても助けになります。またあなたのハートと繊細さを開きます。試してください! 

Oshoは言います:

わたしの手が過去に知ったいかなる体験にも縛られずにあなたにタッチできたら、そのタッチは瞑想的になる」

なにごとも、無垢で自発的であれば、瞑想的になる。

わたしが強調したい三つ目のポイントは、瞑想的なマインドは『瞬間瞬間』に生きるということだ。それは蓄積することなく、つねに今にあり、やってくる一つ一つの瞬間に受容的だ。

— Osho

これがアルーンコンシャスタッチ、そして「ARUN / OSHO ヨガ」のエッセンスです。私たちはこの先も、より実際的な「洞察」をたくさん分かち合っていく予定です! 毎日わずかでも「自分だけのための」時間を確保し続けてください。それだけの愛と注意を受ける価値が、あなたにはあるのですから! 

微笑むOSHOの写真
微笑むOSHO

ということで、「Osho、光明を得てくださって、ほんとうにありがとう」 25年前インドのバルコニーでマッサージをしつつ、わたしがOshoにこの言葉を言ったとき、彼は目を開け、わたしを見て、微笑み、ふたたび目を閉じたのです。

わたしたち全員が自分自身の光を見出しますように...... 今日もこれからの日々も! 

Namaste friends, Anubuddha

翻訳元:Osho, Thank-you for being Enlightened! by Anubuddha
(翻訳:サハジョ)