2026/03/18
Day18:観照と愛---気づきの21日間
こんにちは、ラサタです。
21Days瞑想もみんなで創り出すブッダフィールドの中でより精妙に深まっています。
今日は、観照について。
観照すること、見守ることが瞑想だとよく言われるけど、それはどういうこと?
ARUNコンシャスタッチは、タッチの瞑想です。タッチを通して内側を観るってどういうことでしょう。
今回のニュースレターで、私は5つの感覚、〈見ること、聴くこと、匂うこと、味わうこと、触れること〉について書いてきました。
私たちの感覚、知覚は常に今この瞬間にあり、内側に入っていく扉になるからです。
ARUNで言うタッチとは、手で触れる触覚としてのタッチだけでなく、眼で見ること、耳で聴くこと、鼻で匂い、舌で味わい食べること、呼吸、生きること全てがタッチです。
そしてまた、触れている手が見ることも出来るし、手が身体の内なる声に耳を傾け、手が味わいを堪能することもできます。
なぜなら、それぞれの感覚器官は、機能であり、窓であり扉です。
本当に見ているのは、聴いているのは、感覚器官そのものではなく、
その背後にある私たちの意識だからです。
そこにあるがままを観ている観照の意識があります。
私たちが、観ている、気づいていると思っているとき、往々にして、その対象に注意が向かいます。
そして、その現象に巻き込まれて自分を忘れ、マインドが入り込んでフィルターをかけます。
あの人は怒るべきではない。
この感情は感じるべきではない。
この痛みや緊張を手放すべきだ、と。
絶え間なく判断し、戦っています。
気づいている、知覚している対象から、自分自身に注意を引き戻しましょう。
対象がどうであれ、それらを見ている私は誰なのでしょう。
誰がそれを見ているのでしょうか?
私たちが観ることが出来るとき、その観ている対象が自分ではないということが、頭の理解ではなく、体験を通してわかってきます。
そうすると、痛みにしろ、不安にしろ、どんな感覚や知覚も距離が生まれてきます。そして見守り続けるなら、瞬間瞬間に生命は振動し流動して変化しているのがわかります。例え、恐怖があっても、あまり影響されずに自由になっていきます。
Oshoは言います。
「聴いているとき、ただ耳を通じて聴き、
自分の内なる中心に気づく。
触っているとき、ただ手を通して触り、
背後に隠れている内なるものを想起する。
どの感覚からでも、内なる中心の感触は得られる。そして、どの感覚も内なる中心へと向かう。
もしあなたが手の中に、トータルに存在していたら、もしその中に入り込んでいたら、もしあなたの存在の中心が手に移っていたら、もしあなたの魂がそこにあったら、そのとき手触りの質は違ってくる。」
ARUNでは触れる人も、触れられる人もまさにこのことを共に実践しています。
感覚を通じて生き生きと覚醒し、生命と生命が出会い、観照の意識の中でひとつになるとき、この上ない至福と愛が溢れます。
愛と観照はいつもひとつの両翼なのです。
Love ラサタ
最後に観照に関するOshoの言葉
「瞑想の本質的な核心、その真髄は、いかに観照するかを学ぶことにある。
カラスが鳴く……あなたは聴いている。ここには2つのもの、主体と客体がある。だが、そこに両者を見ている観照者が見えないだろうか。
カラス、聴く者、なおかつその両者を見守る誰かがいる。
これは非常に単純な現象だ。あなたは木を見ている。
あなたがいて、木がある。だが、もうひとつ発見できないだろうか。
自分が木を見ていることを、そしてまた、木を見ている自分を見ている観照者が、あなたのなかにいることを……。
見守ること、観照することが瞑想だ。何を見守るかは問題ではない。
木を見守ってもよい。河を見守ってもよい。雲を見守ってもよい。
子供たちが遊ぶのを見守ってもよい。見守ることが瞑想なのだ。
何を見守るかは要点ではない。対象は問題ではない。
観察の質、気づき、油断なく醒めているという質――これが瞑想だ。」
